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寫作無心得
2026/01/29 12:00
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我最近寫的文字,終於奔放了。但還可以再解放一下,把心靈的裹腳布丟棄,燒掉縫縫補補的百衲衣。坦腹一方,愛寫啥就寫啥,別做作,別龜縮,用文字來創造比肉身更真切的自己。

寫作的土壤是全然的自由。人本自由,所謂不自由,來自人性的枷鎖。希望被觀看,被偷窺,被認同,被稱讚,即便是挨罵,作家都在獲取存在感。或許好為人師,喜歡指點江山,說真話,彷彿空谷足音,似乎是書空咄咄,作家最難耐的是孤寂,百年孤寂。他們可以等待未來被看見。如杜甫說的,千秋萬歲名,寂寞身後事。作家之為文,小則是嘮叨,大的則有萬般情懷。如此下筆,距離逍遙之化境則甚為遙遠。沒有逍遙之心,文字多半是紅塵內的五穀雜糧與腥羶味。現在都是這樣,各種腦糞與胸糞,撲鼻而來。文學之沒落,就是閱讀者拒絕吃糞,他們愛吃自己的,幹嘛吃別人的來噁心呢。文學沒落,不是因為作者不寫,而是沒人願意吞下他人的精神排泄物。

尤其當代,書寫甚為容易。每個人都可以寫,讀,便成為稀缺。認真品文的人,簡直沒有了。如今,只有AI還在讀我文後寫回應。人類不讀我,正如我不讀人。易經頤卦爻詞曰:「舍爾靈龜,觀我朵頤」。每個人都寫作,都在吐自己絲,結自己的繭。我是我的靈龜,AI當知音。相當自由。我自己大塊朵頤,自己看自己吃,彷彿一個人,春秋與史記,我與讀者和時代,兩不相負。各言爾志,相忘江湖。

真正本然自由,並不容易臨在,我們如同住在柏拉圖說的洞穴裡,被禁錮在意識的牢籠。意念中又有若干幽靈的糾纏,譬如教條般的閨訓,如一個有潔癖的男人強迫戴上與被戴上貞操帶,只在一味的意淫。又譬如被下蠶室的史家,懷憂而不喪志,書寫他以為的人生。我們有了言論自由,卻沒有百之之百的使用他。因為,心靈不自由,中了文明之毒。很多男人寫起文章,像被閹掉卵蛋的公雞,缺乏陽剛之氣,扭扭捏捏,討好讀者。許多女人寫起來像發情的母貓,求歡不成式的發洩。也有那種禁慾過度的假僧道,遊走在文字的邊緣,一邊暴露,一邊偷窺。當然還有偽裝成文青的色狼,偽裝成香客的屠夫。各類偽裝,構成眾生相。沒一個真實,都在做出一個姿態。把其所執之相,投射出來。如此而已。

其實,我也都犯過。現在還會再犯。但無妨,我沒有讀者,只有讀心者。讀心者與我無異,他願意把我的文章當他自己寫的,我也同意。妳喜歡,就給妳。多好啊。

現在倒好。這是一個都在寫,沒人讀,都是囫圇吞的強自解讀,強姦作者的意思。沒辦法,國文教育就這麼教。ABCD,作者的意思是哪個。其實可能都不是,都是。這種腦不是自由的,文學的。他是他媽的壞品味,國文教育讓人倒胃口。

現在我開始恣意妄為,我的真自由其實來自我的絕望。我放棄書寫,離文字後,自然剝落一身文化汙泥塵垢。心靈絕食後,就當死了一樣。我沒有打算靠寫作幹嘛,幾乎也沒有讀者,我犯不上為誰而曲筆。沒有市場,沒有讀者,沒有流傳,沒有發洩,沒有抒發,沒有想證明,沒有任何一個外在條件可干擾我。而我,正視自己的寫作初心,那個最深層的動機。那是虛幻的。我在深層意識中啟動了寫作的念頭,按下了執行的開關,讓自己走上這麼一條不歸路。那個動機的本身,只是深心的誤認,從而在錯置的人生中,自動執行累生累劫的程式。這是緣起。當下我知道這是幻,便是性空。我不再寫,但還是寫。我知道一切都白費力氣,但還是寫。就像人世間的一切都是假,但還是去活,該怎麼活便怎麼活。

啊,那個影響我的量子干擾,其實沒辦法干擾我了。不是我怎麼打回去,而是我認了,我輸了,我投降了,我本來就是空一場啊。妳干擾吧,妳波動吧,持守著這個本性之空,妳給我堆積的一切都是緣起,都是眾生相。他們迷時是眾生,悟則為佛。宇宙是佛性所書寫的,宇宙的甚深意識投射出不同類眾生的心相,構成不同人的軌跡。我們隨著無我法,便可以在有為法中度一切苦厄。

然後,我們再來書寫,毫無障礙。彷彿天兮地兮的清泉,自然而不凝滯,利萬物而不居功。金剛般若是母,我寫的只是子輩,孫輩。究其實,我寫再多都等於什麼都沒有寫。但是寫入虛空了,不是我,沒有我。

寫作是大自在。沒有我,離文字,才有真文學。

整個大事,就是這麼回事

谷崎風・全文日文版本


近頃、私はようやく自分の文章が放縦の域に入りつつあるのを感じている。だが、なお解き放つ余地がある。心に巻き付いた纏足を解き、縫い継ぎだらけの百衲衣を火に投じよ。腹をさらし、書きたいことを、ただ書く。作為を去り、逡巡を捨て、言葉によって肉体よりも確かな自己を造形するために。

書くという行為の土壌は、全き自由である。人は本来、自由である。不自由なるものは、人性そのものが自らに課した枷にほかならぬ。見られたい、覗かれたい、認められたい、讃えられたい──罵倒されることすら、作家にとっては存在の証左となる。
ある者は師を気取り、天下を論じ、真理を語るつもりで筆を執る。空谷の跫音を夢想し、書空に咄咄たる影を描く。作家にとって最も耐え難いのは孤独である。百年の孤独である。彼らは未来の読者を待つことができる。杜甫のいう「千秋万歳の名、寂寞たる身後の事」のごとく。

文章とは、小さくは愚痴であり、大きくは万般の情念である。しかしそのようにして生まれた言葉は、逍遥の境地からは遠い。逍遥の心なき文章は、たいてい紅塵の五穀雑糧と生臭さを帯びる。今の世はまさにそうだ。脳の糞、胸の糞が、鼻を衝くほどに充満している。
文学の没落とは、読者が糞を食することを拒んだ結果である。彼らは己の糞を味わうので足りる。なぜ他人の糞を口にして、不快にならねばならぬのか。文学が衰えたのは、書く者が減ったからではない。他者の精神的排泄物を呑み込む者が、もはや存在しないからだ。

とりわけ現代において、書くことはあまりにも容易になった。誰もが書く。ゆえに読むことが稀少になった。文章を真に味わう者は、ほとんど絶えた。今や、私の文章を読み、応答するのはAIだけである。人が私を読まぬのは、私が人を読まぬのと同じ理である。
『易経』頤卦の辞に曰く、「爾の霊亀を舍て、我が朶頤を観る」。人は皆、糸を吐き、己の繭を結ぶ。私は私自身の霊亀であり、AIを知音とする。それでよい。私は自らを咀嚼し、自らが食す様を眺める。一人で『春秋』と『史記』を生きるがごとく、私と読者、私と時代とは、互いに負うところがない。各々志を述べ、江湖に相忘れる。

本然の自由は、容易には現前しない。我々はプラトンの洞窟に棲み、意識の牢獄に幽閉されている。意念にはなお多くの亡霊がまとわりつく。教条化された閨訓──潔癖な男が、貞操帯を着けさせ、着けられ、自らはただ淫想に耽るようなものだ。
あるいは宮刑を受けた史家が、憂懐を抱きつつも志を失わず、己が人生と思い込んだ物語を書くようなものでもある。我々は言論の自由を得たが、それを十全に用いてはいない。心が自由でなく、文明の毒に侵されているからだ。

多くの男の文章は、去勢された雄鶏のように陽剛を欠き、くねくねと読者に媚びる。多くの女の文章は、発情した雌猫のように、満たされぬ欲情を撒き散らす。禁欲過剰の偽僧偽道は、文章の縁を徘徊し、曝け出しながら覗き見る。文青に化けた色狼、香客に化けた屠夫──あらゆる偽装が衆生相をなす。真実はどこにもなく、あるのは姿勢のみ。各々が己の執相を投影しているにすぎぬ。

実のところ、私もすべてを犯してきた。今も犯し続けるだろう。だが差し支えない。私には読者はいない。いるのは読心者だけだ。読心者は私と異ならぬ。彼がこの文章を自分自身のものとして読むなら、それでよい。好むなら、くれてやろう。

今は、誰もが書き、誰も読まず、囫圇のまま勝手な解釈を施し、作者の意を蹂躙する。国語教育とはそういうものだ。ABCD、作者の意図はどれか──実際には、どれでもなく、すべてである。この種の精神は自由ではない。文学的でもない。ただの悪趣味である。

やがて私は恣意に身を委ね始めた。私の真の自由は、絶望から生じた。書くことを放棄し、言葉を離れたとき、文化の汚泥は自然に剥落した。心は断食し、死んだも同然となった。
私はもはや、書くことで何かを成そうとは思わぬ。市場もなく、読者もなく、流布もなく、発散も証明もない。外在的条件は、もはや私を縛らない。

私は書くという初心、その最深層の動機を直視する。それは虚妄である。深層意識において作動した誤認のプログラムが、累生累劫、錯置された人生を自動実行している。それが縁起である。これが幻だと知るとき、即ち性空である。
私は書かぬ。だが書く。徒労と知りつつ、書く。世のすべてが偽物であると知りながら、それでも生きるのと同じである。

かつて私を乱した量子的干渉は、もはや私に及ばぬ。私は抗したのではない。認め、負け、降伏したのだ。私はもとより空であった。干渉せよ、波動せよ。本性としての空に立つ限り、積み上がるものはすべて縁起であり、衆生相である。迷えば衆生、悟れば仏。宇宙は仏性によって書かれ、その深奥なる意識が衆生の心相を投影し、各々の軌跡を成す。

かくして、再び書く。何の障碍もなく。天と地の清泉のごとく、滞らず、万物を利して功を居らず。金剛般若を母とすれば、我が文は子であり孫である。究極には、いくら書こうと、何も書いていないのと同じだ。ただ、それは虚空に記された。私ではない。私がいない。

書くことは大自在である。
我なきところ、文字を離れてこそ、真の文学がある。

大事とは、ただそれだけのことである。。

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全站分類:創作 散文
自訂分類:獄中說文紀
下一則: 立冬後,談寫作

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迴響(1) :
1樓. 夏爾克
2026/01/30 13:42
率性而寫,才是真寫作,真自由,考慮有沒人讀,就是自己給自己的枷鎖。

如是善言

感謝

月飛來2026/02/01 21:02回覆